てかまる日誌

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zoom RSS 日本人の誇り。戦争の中の日本人。

<<   作成日時 : 2014/03/26 11:19   >>

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先日、産経新聞の阿比留瑠比氏が
フェイスブックでシェアしていたページの中で、
随分前に読んだことのあるコピペの一部が紹介されていました。

改めて読んでみて、
胸が熱くなりました。

以下に、紹介します。


【日本軍の話】 日本軍悲しい話コピペ編
2011/02/18(金)
http://yamatokamikaze.blog129.fc2.com/blog-entry-189.html

<抜粋して引用ここから>

元グルカ兵(ネパール人)の証言

我々は世界最強の傭兵だ。
第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。
インド軍は1日で降参させた。

だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、
我々も半数以上が戦死した。
これだけの死闘は初めてで、
勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。

玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた。
日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、
日本軍の死体はみんなやせ細っていた。

戦友が死んだ時には泣かなかったが、
敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。






停戦の訳
72. 名前:ゴンベイさん 投稿日: 2010年04月06日 00:18
ID: 6gnzeGsh0

インドで傭兵としてパキスタン軍と対峙してた時、
遠くから歌が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが味方じゃないことは確かなので
銃をそちらに向けたとき、上官に殴り飛ばされた。

何がなんだかわからなかったが不思議なことに、
パキスタン側でも銃声がやんでいた。
歌声の主は数人の年寄りで、
われわれに気づかないのか旗を持って一列で歩いてきていた。

われわれ側もパキスタン側もその数人のお年寄りが通り過ぎて
見えたくなるまで一発の銃弾も発射しなかった。
結局その日から2日間は戦闘は再開されなかった。

停戦命令も出ていないのにどうして戦闘がやんだのかわからずに、
上官に聞きに言った。
その年寄りたちが歌っていたのは日本の軍歌で
持っていた旗は日の丸だということを聞いた。
その話を聞いてその夜は泣いた。
ものすごく泣いた。

その年寄りたちは
第二次世界大戦で死んだ戦友を弔いに来ていたのだと知った。

こんな危険地帯なのに、
第二次世界大戦から何年もたっているのに、
戦友を弔うために
こんなところまで来てくれる人たちがいることに涙が出た。

あとから知ったが、パキスタン側も
それが日本人でかつてインド(パキスタン)独立のために
イギリス軍と戦った人たちだと知って
敬意を表して戦闘を中断したそうだ。

この半年後、傭兵を辞めて日本に留学した。
たくさん勉強して日本語の読み書きも覚えた。
何年もたって日本のお酒が飲めるようになって、
サクラを見ながら飲んでいたとき、
サクラの花びらがコップに入った。

それを見て急に涙が出てきた。
あの年寄りたちのことを思いだした。
日本人が本当にうらやましい。

(中略)


祖父は戦争の話が嫌いでした
440 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:
2005/11/16(水) 14:29:34 ID:???

私の祖父は戦争の話が嫌いでした。
私がほたるの墓や、ビルマの竪琴を読んでいるのを見つけると、
悲しそうな顔で私に、
「知らない事が幸せなのに」と呟いていました。

去年の今ごろに祖父は亡くなったのですが、
その一ヶ月ほど前に、一度だけ戦争の話をしてくれました。

祖父は、終戦の日まで、
国に何も恩を返すことができなかったこと。
特攻隊として志願したが、上官に泣きながら殴られたこと。
戦争が終わったと知ったその日、
戦友に切腹の介錯を頼んだが、
当日その戦友が拳銃で自殺したこと。

血に染まった壁に、

「○○(祖父の名前)、お前が来たら追い返せるよう、先にゆく」

と書いてあったこと。

めったに泣かない祖父が、
チョコを食べながら聞いていた私を見てぽろぽろ泣いて、

「そいつを少しでもあいつらにわけられたらなぁ、
 上官に差し上げることができたらなぁ」

と、蚊の鳴くような声で、何度も何度も繰り返していました。

祖父は優しい軍人さんだったのでしょうか。
今は上官に、戦友さんに、お菓子を振舞っているのでしょうか。

だったらいいなぁ、と思います。

(中略)



母親(東京大空襲)

昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から
三日目か四日目であったか、
私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の
死体取り片付け作業に従事していた私は、
無数とも思われる程の遺体に慣れて、
一遺体ごとに手を合わせるものの、
初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、
さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、
路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことは
いずれとも変りはなかったが、
倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、
仰向きがすべてであったのに、
その遺体のみは地面に顔をつけてうずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、
なぜこうした形で死んだのか。


その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。


母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、
つめは一つもなかった。

どこからか来て、もはやと覚悟して、
指で固い地面を掘り赤ちゃんを入れ、
その上におおいかぶさって火を防ぎ、
わが子の生命を守ろうとしたのであろう。


赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、
だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。


一人がそっとその場をはなれ、
地面にはう破裂した水道管から
チョロチョロこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、
母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。

若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、
息の出来ない煙に巻かれながらも、
苦痛の表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。


だれかがいった。

「花があったらなあ――」

あたりは、はるか彼方まで焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

<引用ここまで>


戦争のように、人間の生活の
極限まで追い詰められた状況でも、
人は美しく生きられるのだなあ・・・と、
思います。

魂が気高いのです。

そのような生き方をしたいと
いつも思っているのですが、
到底手の届かないところにいます。(^^;)

SNS−my日本からの転載でした
http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=555272

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