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zoom RSS 戦火の中でも発揮された「武士道」の精神

<<   作成日時 : 2016/12/26 05:09   >>

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日本海軍は大東亜戦争でもプリンスオブウェールズの乗組員の救助を妨害しなかったし、スラバヤ沖では自軍の駆逐艦が敵の潜水艦に襲われる危険を冒してまで敵兵を救助したという話を知って我が国の旧海軍が武士道の精神を引き継いでいることに感動しました。
また日清戦争時に長官を務めた伊東祐亨さんは中国・支那の提督丁汝昌に降伏を勧め、丁と諸将を捕虜とはせずに、清国の適当な地まで送り届けることを示す手紙を出したのでした。その後丁提督は自殺してしまうのですが、清国海軍兵士の遺体をジャンクで送ることを知った伊東長官は激怒し、没収するはずの「康済号」を没収リストからはずすと、これに遺体を乗せて送るように提案したのでした。
このことは軍人だけでなく、日本人に「武士道」の精神が残り、それが言動に示されている証左であると感じました。そのことを私達は忘れずに、後世に引き継がなければなりません。

■砲火は交えど海軍の義は守る。伊東長官と丁提督、日清武士道物語
(まぐまぐニュース! - 12月25日 15:20)
かつて「眠れる獅子」と恐れられた清(中国)に戦いを挑み、勝利した日本。そんな日清戦争は数々のドラマを生みましたが、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』で紹介されているのは、国は違えど東洋の「武士道」を通して兄弟同然の仲であった両国艦隊のトップ、伊東祐亨と丁汝昌の物語です。世界が賞賛した「海の武士」同士の固い絆とは?

海の武士道〜伊東祐亨と丁汝昌

明治27(1894)年9月17日の日清戦争における黄海海戦は、1866年にオーストリアとイタリアが戦ったリッサ海戦以来、およそ30年ぶりの艦隊同士の決戦であった。その間にそれまでの木造艦に替わって、鉄や鋼で防備を固めた装甲艦が中心となっていた。

装甲艦どうしの艦隊決戦がどのようなものか、世界の注目を浴びて、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア各国の軍艦が、観戦のために黄海に集まっていた。

勝利は清国7割、日本3割というのが世界の大方の予想だった。なにしろ清国艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7,335トン、世界最大級、最新鋭の巨艦であった。一方の日本の主力艦「松島」「厳島」「橋立」は4,278トンと半分近くの大きさでしかない。

しかし日本艦隊は高速性を生かして二手に分かれて清国艦隊を挟撃し、小口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。「鎮遠」に乗っていた米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。

日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、…有利な形で攻撃を反復したのには、驚嘆するほかなかった。清国艦隊は守勢にたち、混乱した陣型で応戦するだけだった。
(『士魂の提督 伊東祐亨─明治海軍の屋台骨を支えた男』p448)
4時間余りの海戦で、清国艦隊は4隻が撃沈され、1隻が擱座(座礁)自沈したのに対し、日本艦隊は2隻大破、2隻中破と損害は大きかったものの1隻も失わなかった。日本艦隊の完勝だった。

「長官、ご無事でありましたか」

兵員の志気においても格段の違いがあった。旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾が左舷に命中し、鋼鉄の舷板が10メートル余り吹き飛ばされて、艦骨が露わになった。28人が戦死、68人が重軽傷を負った。死屍累々として、鮮血が甲板に溢れた。

連合艦隊司令長官・伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき)は破損状況を見聞するため、艦橋から甲板に降りた。負傷者収容所の横を通りすぎようとした時、顔面が火傷で紫色に腫れ上がった水兵が伊東を認めると、力を振り絞って足元に這い寄り、「長官、ご無事でありましたか」とかすれた声を出した。

伊東は、その気持を察し、その水兵の手をしっかりと握り、「伊東はこのとおり大丈夫じゃ、安心せよ」と、二、三度足踏みをしてみせた。それを見た水兵は、さも安心したように「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万歳!」と、かすかに言い終えると、頭を垂れて息絶えた。伊東は頬に涙を伝わらせながら、しばらくはじっと水兵の手を離さずにいた。

一方、清国艦隊の最左翼にいた「済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、逃げる「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。

海戦が終わって敗残の北洋艦隊が翌朝、旅順口に入港すると、「済遠」は無傷で安閑とこれを迎えた。怒った丁汝昌提督は、「済遠」艦長を軍法会議にかけて、即日銃殺刑に処した。

「日本武士道精神の精華」

黄海の制海権を得た日本軍は、朝鮮半島の付け根から西側に伸びた遼東半島の先端部、旅順口をわずか一日で落とした。北洋艦隊はその対岸に伸びた山東半島の威海衛に逃げ込んだ。

この北洋艦隊の根拠地、威海衛を、伊東はそれまでに2度、訪ねたことがあり、丁とは肝胆照らす仲だった。8年前の明治20(1887)年に、伊東が小艦隊を率いて威海衛を訪問した際に、丁は非常な歓迎をしてくれた。

その後、丁が2度、北洋艦隊とともに日本を訪問した際には、伊東が歓迎した。明治26(1893)年にも、伊東は「松島」以下3艦とともに、威海衛を訪問している。この時も、丁は心を尽くして日本艦隊を歓迎した。伊東と丁の間もうちとけて、まるで兄弟のようになって、写真の交換までしたほどであった。

伊東も丁も東洋的武士道の体現者であり、しかも日清それぞれの海軍の育ての親でもあった。言わば、二人の心中は「海の武士道」によって深く結ばれていたのである。伊東はなんとか丁の生命を救いたいと思い、降伏を勧める文書を送った。

謹んで一書を丁提督閣下に呈す。時局の変遷は、不幸にも僕と閣下をして相敵たらしむるに至れり。しかれども今世の戦争は、国と国との戦いなり、一人と一人との反目に非ず。すなわち僕と閣下との友情は、依然として昔日の温を保てり
(『侍たちの海─小説 伊東祐亨』p289)
と、互いの友情を確認した上で、日本が明治維新を通じて近代化に成功したように、清国も近代化が必要であることを説き、丁にしばらく日本でその時節を待ってはどうか、と勧めたのである。その際は、天皇陛下が閣下を厚くもてなすことは僕が誓う、とまで言った。

各国はこの書を「日本武士道精神の精華として、最も鑽仰(さんぎょう)すべきことであり、世界の海軍礼節として、大いに範とすべき快事である」と評した。

丁汝昌は書信を呼んで、深い感動を覚えたらしく、文書を幾度も読み直してから、眼をとじたまま、しばらくは一語も発しなかった。

そして各艦長を呼んで、この書信の内容を説明し、「伊東中将の友誼は感ずるに余りある。しかし、われわれ軍人の胸にあるのは尽忠報国の大義のみである。一死をもって臣たる者の道を全うしようではないか」と語った。その言葉を聞いた諸将はみな感服し、提督と生死をともにすることを誓い合った。

「君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい」

やむなく伊東は、水雷艇による港内への夜襲を決心した。2月3日、水雷艇の司令たちを旗艦「松島」に招いて訓示を与えた。

敵の港内に侵入して攻撃することは、水雷艇が出来て以来、世界の戦史に例を見ないことであるから、まさに至難の難事である。死を覚悟すべきは無論である。

貴官らにそれを命ずることは、伊東としては辛いことであるが、君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい。
(『士魂の提督 伊東祐亨─明治海軍の屋台骨を支えた男』p465)
伊東の人柄をにじませた丁重な訓示であった。司令たちは、顔色ひとつ変えずに答えた。「承知いたしました。われわれは黄海の海戦では、ただ指をくわえて眺めていました。いま死場所を与えて下さったことをありがたく思います」

「三勇士の遺体を手厚く葬るように」

北洋艦隊は、水雷艇の夜襲に気がつくと、サーチライトで狂ったように海面を照らし、機関砲を打ちまくった。水雷艇の一隻は「定遠」に300メートルまで接近し、魚雷を発射して旋回しようとした瞬間に、銃弾を機関に浴びて、白い水蒸気が闇の中に上がった。

「定遠」の兵員は快哉を叫んだが、それと同時に艦底に轟音が轟き、凄まじい震動が伝わった。魚雷が命中した箇所から海水が激流となって入り込み、艦体は傾き始めた。丁は、艦を付近の浅瀬に乗り上げさせて、乗員を退艦させ、「定遠」は打ち捨てられた。

翌朝、銃撃された水雷艇が発見された。なかには日本兵の死体が三体見つかった。いずれも洗濯した下着に、折り目のついた軍服を着て、微笑んでいるような満足な死に顔をしていた。丁は遺体に対してうやうやしく敬礼し、三勇士の遺体を手厚く葬るように命じた。

水雷艇の夜襲攻撃で「定遠」を含め4隻が失われ、北洋艦隊は大きな打撃を受けた。さらに伊東は全艦隊を威海衛湾口に集結させて艦砲射撃を行い、ここに北洋艦隊は戦闘力をほとんど失った。

「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」

2月12日朝、メインマストに白旗を掲げた砲艦「鎮北号」が威海衛から出て、「松島」に近づいてきた。やってきた軍使は、丁からの「乞降書(降伏を乞う書)」をうやうやしく伊東に捧げた。

それには「すべての艦船と港内の砲台を献ずるので、兵員の命を助けて欲しい。承諾いただけるなら、英国司令長官を証人としたい」とあった。

伊東はこれを了承し、しかも丁と諸将を捕虜とはせずに、清国の適当な地まで送り届けること、丁の名誉に信を措くので保証人は不要であることを返書に述べた。

翌日、再び丁からの使者が来て、「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」との返答書を持ってきた。使者はこう伝えた。

提督は昨日私が返書をお届けしますと、伊東閣下の仁慈のお心を知って感泣なさいました。そしてこの返答書をしたためられるや、「いまは思い残すところなし」とおっしゃり、はるか北京の空を拝してから毒杯を呷(あお)って自殺なされたのです。
(『侍たちの海─小説 伊東祐亨』p303)
伊東は息を呑んだ。いま読み終えたばかりの返答書が丁の遺書だったとは。

「国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは」

その日の夕刻から、清国代表との降伏手続きについての協議が深夜12時まで続いた。あとは明日午後2時に再開と決まって、葡萄酒で労(ねぎら)ううちに、島村速雄参謀が「ところで失礼ですが、丁提督の亡骸(なきがら)はどうなされるおつもりか」と訊ねた。

清国代表はこう答えた。「威海衛構内の艦船はすべて貴国のものですから、提督の柩(ひつぎ)を運ぶ船はありません。いずれ、ほかの死体と一緒にジャンクかなにかに乗せて、芝罘(チーフー、山東半島北部の港湾都市)へ送ることになるでしょう」。ジャンクとは平底の木造帆船である。

翌日2時から再開された協議が大方終わって、一息入れた時、それまで細部の詰めを島村に任せていた伊東が、やおら上体をテーブルの上に乗り出すようにして、「参謀、通訳せよ」と言った。

昨夜代表は、丁提督の柩はジャンクででも運ぶといわれた。しかし丁提督はまことに忠義の士であって、もしも北洋水師が健在ならば、その柩をゆだねられるべきは「定遠」か「鎮遠」でありましょう。

それがいかに敗軍の将となったためとはいえ、国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは、智・仁・勇を重んずる大和武士のはしくれとして看過いたすには偲びざるものがあります。
(『侍たちの海─小説 伊東祐亨』p308)
話すうちに眼を潤ませ、口ひげを振るわせていた伊東は一気に続けた。

ここにおいて…本官は提案したい。わが方は、貴方所有の運送船のうち「康済号」のみは収容せず、貴方に交付します。ですからこれに丁提督の御遺体と遺品とを乗せ、なお余裕あらば将士も運ぶことにする、と。
宣戦講和・条約締結は天皇の大権に属し、いかに司令官とはいえ、戦利品の一部を勝手に敵国に返還することは許されない。伊東は自分に確かめるように言った。

本官は、おそれながら大御心もかくあらせられると信じております。お咎めがありましたら、本官も丁提督のように一死をもってお詫びいたすだけのこと。
清国代表は肩を震わせて、深く頭を下げた。

「伊東よ、もうよい」

2月17日朝、連合艦隊が威海衛に入港した。かつて軍艦22隻、総排水量5万トン強を誇った北洋艦隊は、すでに10隻1万5,000トンしか残っておらず、それらがすべて連合艦隊に引き渡される。

その日の夕刻、これら残存艦の間から、大型輸送船が抜け出した。丁提督の柩を乗せた「康済号」であった。連合艦隊の全将士が舷側に並んで敬礼をする登舷礼式で「康済号」を見送った。「松島」後方の主砲が弔砲を撃った。ゆっくり前を進む「康済号」にむかって、伊東も荘重な敬礼を送った。

一夜明けて、清国は休戦会議の開催を申し入れてきた。ここに日清戦争はようやく幕を下ろそうとしていた。

2月27日、伊東は帰朝を命ぜられ、3月3日に広島宇品港に着くと、すぐに「広島大本営」に向かった。「大本営」とは言っても、粗末な木造2階建てで、明治天皇は前線将兵の労苦を偲ばれて、その一室に起居されていた。

伊東は天皇に対し、戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読み上げ、それが終わると、自分個人の判断で「康済号」を交付した事に触れた。天皇は、よく分かっているというように、「伊東よ、もうよい」と言われた。伊東の処置に十分満足されているようだった。

すでに2月22日付け『東京日日新聞』には、伊東と丁の間に交わされた計4通の文書が全文掲載されていた。天皇と海軍首脳は、伊東の処置を日本武士道に適ったものとして高く評価し、公表に踏み切っていたのである。伊東の丁汝昌への礼節はタイムズ紙にも報道され、世界を驚かせた。

文責:伊勢雅臣

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