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<<   作成日時 : 2017/04/17 15:44   >>

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日本人はどこで道を間違えてしまったのでしょうか。
そして、今後その間違いを自覚し、軌道修正することができるのでしょうか。

次の記述につきましては、歴史認識が違うという方も沢山おられるかも
しれませんが、最後までご一読いただければ幸いでございます。

まず先の戦争遂行において、軍部は野心を以て 世界支配をできるかの如く喧伝し、その 妄想を抱き、その遂行のために、わが国体の聖化を利用してしまった。

では、その淵源はどこにあるのでしょうか。そのことを考える手がかりのひとつとして、 大日本帝国憲法条文の「天皇は神聖にして侵すべからず」 との条文を考えて見たいと思います。

神聖とは「真善美の統合された極致が神聖であります」が、人間は誰しも、
この神聖に憧れ、それを求めようとする心が本能的に存在しております。
そこに人間の進歩向上があるのでございます。

次にご紹介するのは、明治天皇様の御製でございます。

「目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり」

「わがくには神のすゑなり神まつる 昔のてぶりわするなよゆめ」

このように天皇様とは、「神います」から始まり、「神まつる手振り」が、そのご一生なのでございます。

そして、この戦前の大日本帝国憲法条文は、いかにも、わが国体の聖化を言い表している条文のごとくに思われますが、この条文は、天皇様は神聖ではあるが、臣民(国民)は俗人である、と言っているのでございます。

本来、天皇様と国民との関係は温かな血潮の通う結びつきなのでありますが、その紐帯(ちゅうたい)を割(さ)いて、その間に壁を造ってしまっているのです。

さらには、前述しましたように人間は誰しもが真善美に憧れて、それをわがものとし、進歩向上しようとする自然な心の欲求がございますが、それを閉ざして
しまっているのでございます。

これは、果たして日本精神に抵触した条文と言えるのでありましょうか。

日本精神を考えます時、日本生え抜きの神道思想を考えないわけにはまいりません。
そしてその神道の中心に天皇様がおいでになるのでございます。

「神道」を古くには「随神(かんながら)の道」と呼んでおり、その言葉の通り、その意味するところは、「神様そのままの道」という意味でございます。
その言葉は、そのまま神道思想を簡潔に言い表す言葉となっております。

その神道の頂点におわします天皇様は、祭祀王であらせられ、その国が日(ひ)の本(もと)、日本なのでございます。

従って天皇様とは神聖(「真善美を統合された極致が神聖」)開顕の実存者であり、その天皇様から私達は、神まつる手振りを真似ぶ(まねぶ=学ぶ)のであり、

そして自らも「神聖」開顕の体現者たらんと、ただひたすらに謙虚に素直に純粋に、「情熱豊かな愛の至誠に燃えた人間味に富んだ真人(まひと)」としての日本人たらんと自覚し修練する日常生活、その全般を「かんながらの道」というのであり、神道思想となるのでございます。

私達は俗人ではございましょうが、志を以て歩むことができる道があり、その道を戒律によらず、各自の自覚によって歩むことにより、聖化を成し遂げる可能性を秘めた神秘な人間としての存在なのでございます。

このように人間は人格の完成を目指して無限の進歩向上の道を歩むことができる存在という人間観が神道思想なのであり、生きた事実を伴った素晴らしい思想なのでございます。

従って神道思想による天皇様と私達の間には、師弟の関係の厳粛な礼の道はございましても、壁は無いのでございます。

その認識自覚の不徹底さの弊害が、時代を重ねることにより乗じて、問題が深刻化し、形式的に「神聖」を言挙げするようになりました。

本来、真善美を昇華して、聖化を成し遂げなければならない使命を荷った、可能性のある人間観を放擲(ほうてき=投げ捨てる事)し、俗人へと貶め、自らの精神性の進歩向上の道を閉ざし、自らを卑(いや)しみ、幾分か堕落の精神を涵養するのに益するのでございます。

それは、「かんながらの道」に照らすならば、身自らの冒涜を奨励してしまった。さらに言えば、神聖の冒涜という結果を、招来してしまったのでございます。

このことが、いかに深刻な禍事(まがごと=わざわい)を冒してしまっていたのかということ、その事の重大さを自覚をすることは、今後を生きる意味を考える上でも極めて重要な認識なのでございます。

このことについての厳粛で徹底した自覚と反省を経なければ、また同じ過ちを日本人は繰り返してしまう危険性を現在においても孕(はら)んでおります。

しかし、このことは日本人だけの問題ではございません。
人間が神様を出汁(だし)に使い、己の利害得失のために利用するといこと。

これは人類史の精神文化史を辿ると、およそ世界に垣間見ることができますが、今現在も人類はここから一歩も脱却することができないまま、無明の中にあるのではないでしょうか。

しかし、こと日本人はこの越え難き壁を、何としても乗り越えなければならない歴史的使命を荷っているのではないかと感じます。

そして、まず「神聖」を諒とするには、まず自覚において精神の進歩向上の道を受入れて、ただひたすらに「汝自身を知る」ための自覚の道を究明し続けなければなりません。

そのような生活態度や精神性の探求の片鱗が、日本文化を形成して来たのだと考えます。

その自己内面の探求を疎(おろそ)かにして、その自覚のないままに、「神聖」を
謳(うた)えば、一朝一夕にして、万人に「神聖」の自覚が普遍化できるものと、

安直に考えおこなった、その軽率な傲慢さに気付かずに、逆に「神聖」を軽んじてしまい、冒涜する結果となってしまったのでございます。

すなわち、人間とは自然な内面からの欲求としての真善美を求めながらも、その心の欲求が閉ざされ、または挫(くじ)かれてしまうとき、往々にして破壊(悪)に走る(あるいはまた破壊が訪れる)ものなのでございます。

(このことは現今の人類の苦悩と混乱の底流にある大きな課題(救世主の要請)と結び付くのかも知れません)

このように日本精神ならざる精神を醸成して、やがて軍部は「上官の命令は朕の命令だ」と言って暴走し、その横暴が極まるのでございます。

ですから、左翼に限らず戦前に対して、反動的精神がいまでも顕在化するのは故なしとはしないと思うのです。

ですから自身の精神探求の切実な要請と自覚ないままに、単に形式的に
「神聖」を言挙げして祀り上げてしまうことの厳しさを、また神様を弄(もてあそ)んでしまうことの厳しさを、まず沈思熟考して徹底的に反省し、自覚すべきなのでございます。

その歪みは昭和へと続き、遂には大東亜戦争敗北へと連なりました。
そして、上記に記した意味でのまっとうな日本精神の復興の無いままに、残念ですが、現在の日本を迎えております。

このようにして、天皇様を言挙げし、神様を出汁(だし)に使い、弄(もてあそ)んでしまった戦前の軍部の姿なのであって、そのことを、まず私たちは 厳粛かつ深刻に受け止め反省し、その自覚と反省に基ずいて、おひとりお一人が「神います」からの人生を受入れて、「神まつる手振り」の本来の日本精神に立ち返り、

絶えず自らの精神の進歩向上を究明しつつ謙虚に、そして謙虚に生活する態度を以て、今後の日本を興していかなければならないと考えるものでございます。

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【参考資料】

大日本帝国憲法第3条


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/08 11:46 UTC 版)

法解釈としては、国家無答責の法理の根拠とされた。国家の私債権を除き,国家に対して行政処分の違法性,損害賠償請求をなすことはこの条文を根拠として,法的に不可能であった。 不敬や身体を害する行為が不敬罪として刑罰の対象になり、また、天皇はあらゆる法的な責任から免れることを意味している。

条文

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

現代風の表記

天皇は、神聖であって、侵してはならない。

この条文の背景

これと同様の規定は、君主権力の弱体化に対抗する手段として当時の立憲君主国にしばしば見られるものであったが、大日本帝国憲法の最初の憲法草案には含まれていなかった。これは、草案を起草した井上毅が西洋の君主像を天皇に当てはめることに疑義を持ったためである。これに対し、政府顧問のヘルマン・ロエスレルが導入を主張してその後の草案に含まれるようになり、成文化されることになった。

SNS-my日本の日記からとられました

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